「家族最後の日」(植本一子さん)を読んで
この間、仕事が少しだけ早く終わったので、植本一子さんの個展に駆け込んだ。
前日に新刊「家族最後の日」を読み終わったばかりなので、写真と本が見事にシンクロ。
私はつい最近まで植本一子のことは全く知らなかった。
この間、ミシマ社の雑誌「ちゃぶ台」をなんとなく読んでいたところ、彼女のエッセイが収録されていた。エッセイはかつて好きだった恋人について書いたものなのだが、非常に心に突き刺さるものであった。こういう読みこちの文章ってかつて読んだことがないような。
すぐにどんな人なのだろうかと調べたら、新刊「家族最後の日」が出るとわかった。すぐにアマゾンで予約すると、数日後に到着。一日で読了した。
「家族最後の日」。
とても美しい佇まいの本だ。
ツルっとした赤いカバーに大きな写真の帯。
その赤さは誰かが流した血のような濃い赤。
そのタイトル通りに、ただただ静かなる衝撃をあたえてくれる本だった。
最初の章は実のお母さんとの絶縁、次は義理の弟さんの自殺、そして最後に旦那さんのガンの発覚、入院と続く。こう書くとショッキングだが、ただショッキングなだけではない。その中で一子さんは二人の子どもたちと“日常”を生き続ける。それが静かなる衝撃をあたえくれるのだ。
一子さんの言葉は、ひとつも大げさにしたり飾ったりすることがない。あったことを、そのまんま、詳細に描いていく。だから、その言葉をすっと包丁で切ったら本当に血が出そうなほどに生々しい。
そうだった、誰かが死んでも、誰から病気でも、とても、とても辛くても“日常”は続く。ご飯は食べないといけないし、洗濯物は溜まるし、子どもたちは学校に行くし、自分も仕事がある。時に絶縁した母親のことを考えたり、別れた恋人について思い出したり、そして旦那さんが入院で不在の日々の中で、その存在感に改めて気がついたり。
そんな感じで、非日常的な出来事の連続の中で、彼女は正気に懸命に、今日、今、この瞬間を生きる。
私は、自分も物を書く人間として、一子さんの生々しいコドバに強く惹かれる。
大げさなドラマを演じることがなく、嫌いな人を嫌いと言い、面倒臭いことを面倒臭いといいながら、誰かに助けてと叫び、コインランドリーに行って涙を流す。
多分人からどう思われても関係なく、ただ懸命に“自分”をしっかりと生きている人しか出せない言葉のように思う。
多分、自分はこういうものは書けない。
私はどこか周囲に気をつかったしまうのだ。やっぱりこんな風に描いてたら悪いかなあ、誰かに嫌われたくないという気持ちがどこかにあって(一応これでも)、それは例えば自分のムスメにすらそうなのだ。
それや物を書く人間にとっては弱さかもしれない、と大いに考えさせられた。
ただ自分も「生々しい言葉」をもっと描いていきたいと強く思った。自分をもっとさらけ出したら別に地平線が見えるかな。
本当にオススメの本です。